映画【三度目の殺人】広瀬すず演じる咲江を元に考察。空っぽの器の意味は聖書が元?という邪推。

広瀬すず
スポンサーリンク

この物語で真実を唯一話しているのはおそらく山中咲江のみなのではないかと言う仮説のもと、この映画を振り返ってみます。

映画の最後の方で咲江が話すように「ここ(法廷)では誰も本当のことを話さない」と言うことから、法廷で話されていることにはほとんど真実がないと断定します。

そして「勝てればなんでもいい」と言う思想の持ち主の重盛弁護士もまた、最後まで三隅と言う男に言葉として真実を言ってもらうことができないまま物語は終わっています。そしてもちろん三隅は30年前からそうであったように、発言に一貫性がなく、所々作り話をするため、彼の発言は参考になりません。

といったような幾つかのことを考慮すると、この映画の中で唯一咲江の証言をもとに考えることで、一番真実が近くにあることがわかりました。

咲江が発言したのは母親とのシーンと、初公判の後に、重盛弁護士事務所で話したことがほとんど全てのセリフです。

母親のシーンでは父親が食品偽装をしていたことと、母親もそのことを知っていたことが明らかになりました。

弁護士事務所のシーンでは、咲江が自らの父親に性的暴行をされていたことが明らかになり、そのことを三隅に話したと言うことが明かされました。

その中で重要な証言がありました。

「父親に死んで欲しいと願っていたことが、三隅に伝わった。」という証言です。

このところがある意味”非科学的”と言うことで推理をする中で、その根拠が弱くなり、迷う部分だと感じました。

この物語を見ると、裁判ということそのものが、そもそも多くの矛盾を孕んだまま運営されているものだと感じます。人が人を罰するということは必要ですが、人が人を裁くということは本来はあってはならないもの。人はただ神様にのみ裁かれるようにできています。だからこそ、人を裁く職務につくということは、何よりも増して公平性が必要とされるものですが、真実が明らかにされない法廷という場所では公平性などそもそも存在できないということが、この映画ではっきりとしたように思います。

人が人にその罪に応じて罰を与えることはできますが、根本的に人を裁くということは不可能です。ことのとから鑑みると、この映画で三隅が死刑になったということは、これらの登場人物が真実を隠し、真実を蔑ろにし、真実ではなく自分の立場の保身など、自分だけの利益のために全ての物事を決定しているということがわかり、この法律制度自体の機能不全が手に取るようにわかってしまう映画でした。

そして、そのような社会の闇を明らかにしながらも、この映画の面白いところは主人公の重盛が「真実より、勝つために必要なもの」を何よりも重要視するというキャラクターでありながらも、いつしか、真実を追い求めることに取り憑かれたようになり、振り返れば、この主人公重盛は一貫して「真実」を追い求めていたように見えるところです。

さらに、死刑が確定してから重盛が三隅に面会するシーンはとにかく圧巻でした。

役所広司演じる三隅をアクリルガラス越しにカメラで捉え、そのアクリルガラスに映った重盛との対話シーンがおよそ1分ほど続きます。三隅が実像として真実を象徴し、重盛が虚像として嘘を象徴する。

そう考えた時「言うことがコロコロ変わる」キャラクターとして描かれてきた三隅が本当は真実の人で、真実より勝つことを使命と考える重盛が嘘つきだということが現れていたように感じました。

セリフを言うたびに、その人物にフォーカスが合うと言う撮影担当の瀧本幹也のカメラワークに感動しながら、この物語が聖書に深く根ざしたものであることが、この文を書き終える頃になってわかってきたことでした。

「海街diary」を撮った監督と同じようには見えないけれども、映画っていいなっと思ってしまう作品でした。

*ネットで探した聖書の言葉から「裁き」についてのこと、三隅というキャラクターの象徴として使われた「器」についてのことを引用させていただきました。


彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念に溢れ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。彼らは、このようなことを行うものが死に値すると言う神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。-ローマの信徒への手紙 1章28節〜2章1節

罪を離れて自分を清く保っているなら、キリストの最高の目的のために用いていただける器になれるでしょう。-テモテへの手紙 Ⅱ 2章21節

この素晴らしい宝(私たちのうちに輝いている光と力)は、壊れやすい器(私たちの弱い肉体)の中に入っています。私たちのうちにある栄光に満ちた力は、神に与えられたものであって、私たち自身から出たものでないことは明らかです。-コリントの信徒への手紙 Ⅱ 4章7節

コメント

タイトルとURLをコピーしました