ディーン・フジオカ経歴まとめ【高校卒業後〜アメリカ〜香港時代】編

ディーンフジオカ
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ディーンさんは、ご自身の辿ってきた道をこう振り返っています。

アメリカ=音楽出会い香港=キャリアスタート台湾=ネクストレベルへジャカルタ=蘇り(復活)の場所

ここでは、アメリカへの留学から、   放浪の旅へと出発し、俳優としてのキャリアの始まりを見ていきます。

ディーン・フジオカ 略歴

2004年 コミュニティカレッジ卒業後アジアの様々な国を巡り、香港でスカウトされ俳優業開始
2005年 映画「八月の物語」映画初主演 台湾ドラマの創始者と言われる柴智屏と出会い契約し台湾デビュー
2006年 拠点を台北へ 台湾TVドラマ「極道学園」「ホントの恋の見つけかた」出演
2007年 台湾で初の映画「夏のしっぽ」出演
2008年 上旬、柴智屏制作の台湾ドラマ「笑うハナに恋きたる」出演
2010年 日本統治時代の台湾に関する歴史を題材の長編映画「セデック・バレ」出演
2011年 「夢の向こう側〜ROAD LESS TRAVELED〜」出演 台湾・台北・インドネシアなどのGMT+7〜+9の時間軸の中での活動スタイルを芸能プロダクションアミューズと双方共感し契約(2011年)
2012年 テレビシリーズ「ブラック&ホワイト」の映画版「ハーバー・クライシス〈湾岸危機〉 Black & White Episode 1」出演(日本公開は2012年9月)
2013年 初の映画監督作「I am Ichihashi 〜逮捕されるまで〜」公開
2014年 アメリカTVドラマ「荒野のピンカートン探偵社」でアメリカデビュー
2015年 日本TV フジテレビドラマ「探偵の探偵」NHK朝ドラ「あさが来た」出演
2016年 日本TV TBSドラマ「ダメな私に恋してください」出演

*西暦は正確にはずれている場合があります。参考までにどうぞ

シアトル・タコマ時代 1999~2003 音楽との出会い

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ディーンフジオカがアメリカに行った時「胸に決めていた」こと

最初にアメリカへ行った時に、絶対自分の中に取り込んで帰って来ようと思っていたのが3つあって。 英語はあたりまえだけど、ITと会計学とファイナンス、その3つは絶対、何をやるにしても必要かなと思ってました

出典:http://asiancrossing.jp

ちょうどその頃は、アマゾンやマイクロソフトなどをはじめとする企業が 盛り上がりを見せていた頃。   まさに時代の最先端を目指していたのですね。

アメリカで最初に向かったのはシアトル!のはずだったが・・・

意気揚々と空港に降り立ったディーンさんは てっきり空港からアパートに向かうとおもいきや、 道案内の矢印どおり右方向のシアトルに行くと思ったら、車はなぜか反対側のタコマという町に。   間違ってシアトル「近郊」の大学に入学してしまったそうです。 キャンパスでは殺人事件があったり、夜は治安が悪くて『金を出せ』と強盗に遭ったことも。

留学で最初に行った街がコリアンタウンで、周りは全員韓国語だったので自然に身に入るようになり、ハングルの勉強もしました[出典]

タコマ半年もたたないうちにシアトル市内の学校に転校したそうです。 その後ディーンさんは結局、シアトルに2004年まで5年間住むことになりました。   *ワシントン州西部タコマ市のコミュニティカレッジを検索するとタコマ・コミュニティ・カレッジ(Tacoma Community College)という学校がヒットします。  

デザイン&アメリカ

こうしてアメリカで生活するなかで会計学や、ファイナンスのみならず アメリカの文化を存分に吸収していったようです。 車のカーラジオが壊れたから一緒に乗ってる2、3人で「ビートボックスやってよ、俺ラップやるから」みたいな といったような感じで、 ヒップホップが盛んなアメリカのストリートではラップをやっていたそうです。   そしてこの頃に、ホームステイをしていたホルトハウスで命名されたアダ名 「ディーン」 と呼ばて始めたそうです。   ただ自分のことを「ディーン」と自己紹介するようになったのは 香港に行ってからということで、「ディーン」は広東語で言うとcrazyという意味になり 香港での「クレイジー」な生活ぶりからも、ピッタリのニックネームだったのですね。

音楽とボクシング

アメリカで学生のころからボクシングも始めたということです やはりアメリカといえば、音楽文化の盛んな国。

そしてディーンさんももちろんその音楽の文化にどっぷりとはまったようです。 最初に間違って行ったタコマ市では、   ディアンジェロの「VOODOO」(2002)に出会ったといいます   ディアンジェロはアメリカのシンガーソングライターで   ニュークラシックソウルやネオソウルという一つのムーブメントを創りだし   多くのフォロワーを生み出したアーティストです。   ディーンさんは、もともとギターメインの音楽をやっていたことから   メタルなどの速弾き音楽の延長でジャズに傾倒し   その後、西海岸では生活の一部であるヒップホップ&R&Bへと開眼したといいます。   ジャジーな音楽を始め、トリップ・ホップと言われるジャンルなどを聴き   特にニンジャチューン(Ninja Tune)はよく聴いていたといいます。

9.11の影響で出国

大学でIT関連の勉強をしていたディーンさんは、 アメリカで起業することを夢見て、就職活動をしましたが、 最終的にはビザ取得が難しいということで、その目標は頓挫してしまったそうです。

2001年に起きた9.11アメリカ同時多発テロをきっかけとして、自分が移民であることが浮き彫りになり 弁護士を雇って移民局と交渉することも考えたそうですが それは時間とお金の無駄だと考え、「せっかく時間ができたのだから」 とバックパッカーとしてアジアを旅して回ることを選択したそうです。

いろんなサインはあったんですけど、シアトル在住中に9.11が起こって、あれがハッキリ1つの切り替わりになっていますね。

自分が移民だから、僕とアメリカとの関係の本質がぼんやりとわかってきた。 じゃあ、別の社会体制の国にはどういう人たちがいるんだろう?と思って。 大学のクラスにはいろんな国の留学生がいたのですが、その人たちのリアルな世界を見たくて、中国やロシア、タイ、ベトナムなどを廻っていったんです。

出典:http://www.cinra.net *シアトルのコミュニティ・カレッジが2年制だとすると、卒業の2001年後から2004年までの情報が探しきれません。

そんなディーさんはこれまでに、ドレッド、真っ白、丸刈りといろいろな髪型をし敵たそうですが[出典] 現在確認できるのは以下のドレッドヘアのみです

ちなみに、こちらのインスタグラムのハッシュタグにある capitalhill(キャピトルヒル)はもしかしたら シアトルで住んでいた際の地名かもしれません。(*正確にはCapitol hill?)

シアトルのダウンタウンの東側に位置する地域で、 伝説のロックギタリスト、ジミ・ヘンドリックスの生誕地もこの街にあります。 参考サイト:キャピトルヒルを歩いてみました

そしてディーンフジオカさんは、1999年から5年にわたり住んだシアトルをあとにして アジア放浪の旅へと飛び立ったのでした。

その後2003年23歳の時、アルバイトで貯めたお金を身の回り者を持って 北京、ベトナム、カンボジア、タイ、香港という順番で 3ヶ月で周り、2004年に立ち寄った香港で転機が訪れたのでした。

香港時代 2004~2006 キャリアスタート

アメリカの911発生から アメリカ国外に出ざるをえない流れなら、自分はアジア人だし、 「アジアに行ってみよう」ということから 「バックパッカー以上、移住未満」のようなテンションで 旅をしていたなか、香港中心街、ワンチャイでスカウトされます。   オープンマイクフロアにターンテーブルで、   客とパフォーマーの境がない状態で見せた   飛び込みのパフォーマンスを見た雑誌の編集者からスカウトることになりました。

香港のあるクラブでオープンマイクのイベントをやってたので飛び入りしたら、そこにたまたま香港のファッション誌の編集者がいて『モデルをやってみないか』とスカウトされたんです。 エンタテインメントの仕事をすることはまったく考えたことすらありませんでしたから、モデルも最初は“恥ずかしい”という感覚だったんです」

最初は迷いもあったようですが、 今ではこれがきっかけとして、日本でのブレイクまで繋がる瞬間となったのですね。

「せっかく人に見込まれたのに、変なこだわりを持って新しい自分のチャンスを失うのはもったいないと考え直したんです。 貧乏旅行だったから、お金が目的でしたけど 1週間の滞在予定だった香港旅行が1カ月になり、1年になったんです」

しかしまだまだモデルの仕事だけでは十分な収入を得ることができなかったようでモデルをやりながらも、知り合いのお店のランチョンマットやお箸入れ袋デザインをしたり   夜のクラブでMCでDJをしたりと 今までの経験からできることをして、つないでいた時期でした。

「八月の物語」出演でブレイク!その頃の住まいと悩みとは?

まだまだ十分な収入がないときは、 ゲストハウスにインド人の宝石商みたいな胡散臭い人たちと一緒に住んでいたり いろいろな珍しい経験もできたのもこの頃。

そして、ヤンヤンマク監督の香港映画「八月の物語」で主演を努め、広東語ので役を演じきり、その作品がまたしても大きな転機となったのでした。

  現在でも、中華圏でドラマの母と言われる名プロデューサー、アンジー・チャイに見初められ 台湾行きのきっかけとなったのでした。   その後、26歳の時にその活動拠点を 台湾の台北市に移すことになります。

ディーンさんは、ここで本格的に役者としての道をスタートし始めそこで演技というものに触れて“パッション”を感じ、その世界に益々のめりこんで行きました。

コメント

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